「日本人」という幻想

アイデンティティとしての「日本人」

このブログの読者は、生まれたときから日本国籍を有している人が99%だと思います。

そのおかげで海外に出れば、

「I’m Japanese」

っていう自己紹介が出来ますね。そこに異論の余地はなさそうです。

だけどこの「日本人」という暗黙の了解事項、本当にそこまで普遍的なのでしょうか?

江戸時代は?

今からたったの150年前。

そこには「日本人」という概念は微塵もありませんでした。何しろ世界の中心は天下の将軍様ですからね。

日本の国土に住む人たちが「日本人」に編入されたのは、明治以降になってからです。

士農工商が撤廃され、形式上は身分制度が否定されましたが、そこには根強く「差別」の問題が横たわっていました。

で、そこから部落差別を撤廃する運動だったり、女性の身分を向上させる活動が功を奏し、差別は少しずつ改善されていきました。

揺らぐ「日本人」

ところが「日本人」が、皆一律に平等になったのかというと、そうでもなさそうです。

そもそも、「日本人」っていう概念自体も揺らいできています。

最近だったら国際結婚とかも、差し当たり驚くべきことではなくなっていますよね。

親が日本の国籍を有していたり、永住権を持つ外国人が日本で子供を生んだり。

そうすると、単に「見かけ」だけでは「日本人」かどうかの判断なんてできなくなります。

肌の色がどうであれ、顔立ちがどうであれ、「国籍」さえ有していればれっきとした「日本人」です。

そして当然のこととして、日本の行政サービスを受けられる訳です。

国籍はアイデンティティではなく、権利

今や人間の移動は限りなく自由な時代です。

モノもヒトも自由に移動できる以上、ヒアリさんだってそりゃ日本にも入ってきますよ。

基本的人権を尊重する以上、どこで誰と結婚をしても、それは個人の自由です。

国籍による線引きなんて、もう意味をなさないほど、世界中では「混在化」が進行しています。

そして大事なことは、ナショナリズムを標榜する政治的な意思とは関係なく、この傾向が今後も強まっていく言うことです。

逆に言うと、そうした「混在化」の動きがナショナリズムに油を注いでいるとも言えます。

その傾向から考えると、「国籍」の位置づけは個人の心のよりどころとしてのアイデンティティではなく、寧ろ権利を主張するための証明書としての役割の方が強くなっていきます。

「日本人」的ステレオタイプ

遡って考えてみると、明治政府による「日本人」同化の動きだって、そりゃあ乱暴なものだったと思います。

端っこの島々(沖縄とか北海道)を無理矢理開拓したり、押し付けがましい保護法を制定してみたり。

それは何のために?

っていうと、やはり周辺の人たちを、国家の主権に従う存在に仕立て上げたかったからでしょう。

何が言いたいのかというと、

  • 「日本人としてかくあるべき!」
  • 「日本人の伝統はこうあるべき!」
  • 「日本人の考え方はこうだ!」

なーんていうのは、全部まやかしであり、そもそも為政者がその人たちを支配するために持ち出したレトリックに過ぎないということです。

それが今となっては、個人が国家に権利を主張するための証明書、となっています。

『お国のために!』

なーんて言うと右翼みたいに思われがちですが、それでもまだまだアイデンティティの拠り所として、

『私は日本人』

にしている人が多いと思います。が、その地盤は少しずつ少しずつ、メルトダウンしているのもまた事実です。