幸せについて本気出して考えてみた
前回は
https://nakanishidaisuke.com/2019/03/04/all-happy/
という記事を書きました。
ただ、フォーラムの内容的には、
「神山町はいかにして成功しているか?」
という感じでした。もちろん沢山勉強になりました。
そこで本日は、五島でみんなが幸せに暮らすには?
を緩く考えてみたいと思います。
便利さと幸福度は関係ない
島では色々な面が不便です。
- バスの本数が少ない
- 飛行機の欠航が多い
- 交通に掛かるコストが高い
- 医療体制が本土と比べると見劣りする
などなど。全国の過疎地でも、同じような状況かと思います。
でも、これが例えば「本土」と同じ水準になった場合、島民の「幸せ度数」は比例して上がるのでしょうか?
私の答えは懐疑的です。
なぜなら、必ずしも全員が、「利便性」を求めている訳ではないからです。
そりゃあ便利な方が助かることも多いですが、別に今のままでも十分満足して暮らしていける、という方もいます。
ですので、
便利・快適になれば、みんなハッピーになるでしょ?
というのは、非常に短絡的で、危険な発想かと思います。
不便だけど幸せが最強
そもそも、価値観が多様化している現代ですので、
「あなたを幸せにしてあげる」とか
「どうすれば皆が幸せになるか?」
という感じで、他人に
「自分なりの幸せの水準」
を押し付けるもの違う気がします。
言うまでもなく、人は様々な「価値基準」を持っているからです。
- 最低限度のお金がないと幸せになれない
- 衣食住さえ満たされていれば、満足
- 様式便所じゃないと不快感を感じる
- 最先端の医療を受けられないと、不安で一杯
などなど。
私がインドに行ったときに印象的だったのは、インドのケンタッキーを美味しそうに食べる同僚が
あいつは「満足の水準」が低くて良いなー
と言われていたことです。幸せも結局、同じことだと思います。
自分の満足の水準をコストのかかる部分に置いてしまうと、到底田舎暮らしは出来ません。例えば
- 全自動で開閉するピカピカのトイレ
- コンビニと同じくらい手軽な医療サービス
- ワンクリックで即日に届く宅配サービス
などです。
そもそも100年前は、こういったものがなくても人は生活していました。
外部要因と比べない
「幸せは人と比べるものではない」と言いますが、生活水準については、都会が一方的にドンドン水準を上げていきます。
そのため、田舎が都会水準に追いつこうとすること自体、不毛な競争です。
いつまで経っても「満足感」が得られないまま、
滑車を回し続けなければいけないからです。
そのため、心の在り方として、
他との比較ではなく、自己満足的な幸福感を得られるような考え方や訓練
が必要とされているのではないでしょうか。
この問いについては、
既存の宗教が一定の答えを提示しているように感じます。
もし私が市長だったら
私は今のところ、「快適さ」を重視するような路線で物事を考えています。例えば五島では、
- 最先端の医療体制や人・設備を誘致する
- 不便さを解消する交通網の整備する
など。しかしもしかすると、そんなに手間暇をかけずとも、
不便さを受け入れながら、島民が笑える機会を最大化しよう!
っていう路線の方が、費用対効果としての「島民の幸福度」は、高まるのかもしれません。
その意味では、島根県の海士町は、
ないものはない!
http://www.town.ama.shimane.jp/topics/3000-1/post-72.html
と言い切ってしまっている辺り、島の経営哲学として成功していると感じます。