「迷惑気にしない」のすゝめ

人に迷惑をかけること

私が海外での生活を通じて発見したことは、日本に住む人の価値観の根底には、「人に迷惑をかけないこと」を重んじるキライがあるということだ。

しかし海外では、(日本と比べると)そうではないことが多い。

例えば同じフラットハウスに住んでいても、隣の事は御構いなしに大音量で音楽をかけたり、使った後の共用部分の掃除をしないことが多い。

もちろん一概には言えないが、全体としてはその傾向が強い。

日本に住む人の感覚からすると、はっきり言って「迷惑だなぁ」と感じてしまうことが多いのである。それは時として、苛立たしくさえ思えてしまう。

それは私という典型的な日本育ちが、「他人に迷惑をかけないこと」を重視する価値観の中で育ったという事の証拠でもある。逆にそれを感じないのは、単にそういう環境」で育って来なかったからである。

「迷惑をかけない」生活

どれだけ「迷惑をかけないこと」を意識しているつもりでも、他人に一ミリも迷惑を与えずに生活をしていくことは不可能である。

気付いていないだけかも知れないが、知らず知らずのうちに「迷惑をかけてしまっている」ことが殆どなのである。

極論を言ってしまえば、どれだけ気を遣っているつもりであっても、その人自信が「どう感じるか」という事は分からない。

そして問題なのは、「迷惑をかけないように」常に気遣いをしなければいけないのは、ため息が出るくらいに息苦しい。

  • 周囲を伺う
  • 空気を読む
  • 本音が言えない
  • 喋りづらい

そうした一種の「同調圧力」が、日本に住む人の間ではかなり暗黙的に刷り込まれているように感じられる。

なぜなら周りと違うことは、「他人に迷惑を与える」ことだから。

朝のサラリーマンが浮かべるあの陰鬱な表情こそが、そうした圧力の高さの象徴なのではないだろうか。とにかく、息苦しい。

そう考えると

「他人に迷惑をかけないこと」よりも、「他人の迷惑を許容できること」の方が大事なのではないだろうか、と思い始めている。

とりわけ海外で暮らしていると、「まあ仕方ないかな。。。」と諦める習慣が身につく。

それは何もネガティブなことばかりではない。私はどうしても我慢がならないことに対しては、空気なんて読まずに抗議を訴える。

ある日、ネイピアの家で眠っているとき、どうしてもクラブミュージックの音楽が煩くて眠れない夜があった。

「もう11時ですよ。音楽の音を下げてくれませんか?」

そう言うと、フランス人は素直に謝った。

「すまなかった。君の事を考えていなかったよ。」

彼はそういって音楽を止めてくれた。

迷惑だと感じたら指摘してあげればいい。だけど多めに見てあげることが基本スタンスとしては大事であると思う。

人の迷惑を気にして息苦しい思いをするよりも、「迷惑を気にしない」くらいの気持ちの方が楽なのではないだろうか。 

 

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