核共有を巡る議論について

ロシアによるウクライナへの侵略を巡り、日本国内でも「核の共有」を含む議論を始めるべきではないか、という議論が起きています。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220303/k10013511741000.html

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA08DP90Y2A300C2000000/

これに対して野党は、核の抑止に繋がる危険性があるため、議論すらしない

としていますが、これはどうなのだろうか、と思います。

疑問点1. 論点がずれている

メディアでは「核の共有」が論点になっているように見えるのですが、本質的な論点は核をどうするかではなく、

日本を含む東アジアの安全保障をどうするか?

さらに広げて言えば、

自由主義陣営の安全保障をどうするか?

であるべきです。まずは安全保障というテーマで、エネルギー、食糧、サイバー空間、土地というそれぞれの領域をどうするのか、議論はすべきだと感じます。

疑問点2. 結論ありきの議論

「核共有」というテーマに関して、野党は議論を拒否しているように報道されていますが、

集団的自衛権に関する解釈の変更の時のように、

「議論を始める=数の力で押し切られてしまう」という警戒感があるのは否めません。

ただ、国民の側からすると、アジアを含むパワーバランスが大きく揺らぐ中で、

「議論を拒否=現実的な代替案を持たない、無責任」にもなってしまうと感じます。

今の日本の政治の問題点は、議論を始めるという既成事実を作ってしまえば、数の力でねじ伏せてしまう事が可能な点ではないでしょうか。

私の意見

与党は今回の侵略を契機に、安全保障の議論を加速するべきだと唱えており、私も議論すること自体は賛成です。

そのうえで、大前提としては

結論はさておき、堂々と国会議員が議論をしてほしい

というのが私の意見です。

そのうえで、私は、

日本は非核三原則を修正せず、核兵器に頼った安全保障政策を取らない方が良い

と考えています。

その理由は明白で、

日本が唯一の被爆国であり、核の惨禍を繰り返さない世界の実現に向けた役割が大きい

事です。世界的にみても、核廃絶に向けた役割は大きいと考えられます。

安全保障の考え方

当然ながら、

理念や信条では、他国からの侵略を防ぐことは現実的に不可能

という反論があるでしょう。

確かに、「ピストルを持つことで、侵略者を思いとどまらせることに効果がある」と考えるのは一見すると合理的です。

ただし、現実的な問題として、核を含む「力による安全保障」では、必ず国同士での経済力や軍事力に不均衡が生じるため、

パワーバランスが保たれないと、平和が崩れる

という考え方自体、持続可能ではありません。

それは常に、他国との軍事的なパワーバランスの均衡を求められるからです。

この論理でいけば、日本は人口減少する中で、経済的な面で軍事力を保つ力を維持できないと考えられます。

そうである以上、力による安全保障の考え方にはそもそも限界があります。

猫、あるいは亀のように

動物たちを観察すれば分かるように、必ずしも強そうな生き物だけが種を保存しているわけではありません。

猫のように、か弱いながらも逃げ足の速い動物もいれば、

亀のように、固い殻で外敵から身を守る手段もあります

すなわち、安全保障の考え方は、逃げる or 守る という選択肢についても、より現実的な手段として検討を進める必要があると考えています。

日本は島国ですので、他国からの侵略に対しては、取りうる手段も大陸の国とは別の水準で考えることが可能です。

現実を捉えなおす

日本は人口減少する中で、

  • 力による均衡は維持するのが困難
  • 被爆国として核軍縮を推進する役割が大きい

と考えられます。

具体的な方法はいろいろな可能性があると思いますが、その大前提としては

安全保障の考え方を、従来のモノから根本的に変えていく必要がある

と考えています。

 

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