五島の教会郡
五島列島には、実に50あまりの教会が存在します。
一つ一つ、同じものはないくらいに独特な教会が多いのですが、中には非常にこじんまりと、ひっそりした教会もあります。
先日、香港からのプロテスタント巡礼団のガイドに付き添っていたときのこと。
その教会は、何と信者が1人しか居なくなってしまい、車で行くのもひやひやするような場所にあります。
本当に「隠れ家」的な場所にあるため、決して豪華な作りではなく、民家風(家御堂)になっています。
そんなひっそりとした教会ですが、訪れた巡礼団はそこで1時間ほど、聖歌を歌ったり、祈りを捧げたりしました。
外から様子を見ていると、本当に教会が活き活きと、教会本来の役目を果たしているように思えました。
しかしそれにしても、これだけ時間と空間を越えて、信仰が受け継がれていくのはすごい事です。
私がワーホリで訪れたNZにも沢山の教会がありましたが、世界中で信仰は今も保たれています。
で、損得勘定しか頭にない無宗教の人からすると、
- 宗教って、何か良いことあるの?
- 何のために、やっているの?
何ていう、小学生的な疑問が沸いてきます。そこで本日は、
「現代の人間が宗教を信仰する理由」
について、考察してみたいと思います。
理由1 . 伝統だから
人が宗教に関わる最初は、親や親戚の影響でしょう。
代々教えを守って来たからそれを継承し、教えを受け継ぐ。
という流れが世界的に見ても殆どな気がします。
それは家族だけなく、周りの集落や共同体と言った、「自分を取り巻く社会」からの同調圧力という面もあります。
村や町が全体として宗教を信仰している場合、コミュニティの中には大きな寺院や仏閣、教会が存在することになります。
そうした社会で、一人だけ無宗教でいると言うことは、ある意味で村八分にされる要素でもあり、「異端児」と見なされる原因にもなってしまいます。
ただ、現代では人間が「収入源としての土地」から解放されていますから、土地に縛られず自由に宗教を選択する人も増えています。
理由2. 生きるのがツライから
「ブッダ」という手塚治の漫画を読んだことがあるでしょうか?
その当時、インドに暮らす人々はカースト制と言う身分社会の中で多くが苦しみ、
何のために生きているの?
が全く分からないような状態でした。
最下層の身分の人たちは、朝起きてから馬車馬のように働かせられ、食事も満足に与えられず、売り物として市場で買い叩かれていました。
そして飢饉や干ばつで多くが死亡する状態でした。
こうしたツライ社会の中で生きる人たちにとって、仏教は非常に大きな心の拠り所になっていたでしょうし、他の宗教でも
「困っている人の救済」
と言う側面があると考えられます。
逆に言えば、現代社会に生きている一部の人たちは、少なくとも衣食住の心配をしなくても生きていけるようになったという点で、
「宗教なくても困らない」
くらい、裕福な状態になったと言えるのでしょう。
まとめ
宗教が世界中で信仰され、今も多くの人が何らかの宗教を信仰している理由は、
- 親や社会からの同調圧力
という面に加えて、
- 個人の心の拠り所
という面もあるのでしょう。
ただ今後は、益々多くの人が「集落」から解放され、益々多くの人が、情報へのアクセスを獲得していきます。
そうすると、今まで絶対的で疑う余地のなかった宗教の教えが、
- 数ある宗教の中の一つに過ぎない
というように見られ、相対化されてしまいます。
もちろん、宗教の教えは、論理だけで片付く問題ではありませんので、科学と相容れない側面もあります。
しかし例えば、宗教の経典・教えを一字一句AIに読み込ませ、論理的に齟齬がないように「最大公約数的な宗教」として、新しい経典が生まれるかもしれません。
或いは、
「人の心に最も響くワード」
として、新しい宗教ワード集が出来上がるかも知れません。
それは新たな宗教的対立を生むかもしれないし、逆に終止符を打つ手がかりになるかもしれません。
少なくとも言えることは、
- 個人が「場所」から解放され、情報アクセスが増えることで
- 従来の「絶対的な教え」が相対化され
- 現代社会での共通化、統合が試みられる
と言うことです。