現代の教育論~学校と宿題は無意味~

現代の学校教育

前回の記事では、

五島高校はブラック。まずは宿題を廃止すべきでは?

という趣旨の記事を書きました。

でも考えてみれば、「宿題」っていう制度自体、時代遅れだと思うんですよね。

今回は、なぜ「宿題」が無意味なのか、更にその先の「教育のあり方」について考えてみます。

パッシブからアクティブへ

日本の教育制度はよく、「詰め込み過ぎww」であると揶揄されます。これはもう昔から言われていたことであり、私が子供の頃は

「ゆとり教育」

が敢行されていました。

※その年代に教育を受けた人たちを「ゆとり世代」と言います

それから国際的に学力が下がったとか何だかんだと言われまして、再び教科書が厚くなったりしました。

でもコレって、ベクトルの方向性が変わったという話ではなくて、「力加減」が変わっただけに過ぎないんですよ。

端的に言えば、土曜日が休みになったかどうかっていうだけの話です。

教育そのもののあり方については、ずっと先生の話を生徒が聴くという、一方向的で受身的(パッシブ)な状態のままでした。

しかし一方で、北欧だとかの教育をみてみると、ベクトルの方向性がそもそも違うんです。

簡単に言えば、日本のような一方向的な教育ではなく、生徒が自ら学んでいく、っていう感じです。

アクティブラーニングの事例はこちら

で、話を戻すと、先生が

「○○をやっておいてね!」

っていう命令を出すことは、100%受動的であり、能動的に使えるはずだった時間を奪っているのです。

そんなロボット人間を輩出するだけの教育システムの負の遺産こそ「宿題」です。

「宿題」をこなすことに慣れてしまった人間は、今後益々「時代の変化」に対して鈍感になっていきます。

学校に行く意味はない①社会性

それとですね、突き詰めて言えば学校に行く意味ってもうあんまりないと思うんですよね。

それは現代の学校教育が、基本的には

「良い高校→良い大学→良い会社」

という、旧態依然のメインフレームの上に乗っかっているからです。

こう言うと、おそらく多くの人が反論するのではないかと思います。

学校は、社会で生きていくための協調性を学んだり、他人への思いやりを育んだりする側面もあるでしょう!!

って感じで。

でも思うんですが、やりたくもない(=いやいや参加の)運動会で、本当の意味での協調性って学べるのでしょうか?

学べるのは精々、「忍耐力」でしょう。

「忍耐力」も大事だったのかもしれません。昭和の時代は。でもこれからの時代は圧倒的に、「創造力」が大事です。

で、話を戻すと、本当に社会のことを学ぶ上で最善の方法は、実際の社会に出て、「自分が参加したい」行事に主体的に参加することではないでしょうか?

どうして学校と言う「非社会的な」空間で、わざわざ「社会に出るための疑似演習」をしなければならないのでしょうか?

特に中学生や高校生あたりは、もっと学校の外に出て、学校の外で何が起きているのか、知っておく必要があると思います。

そういう意味では、五島高校が最近行っている「バラモンプラン」は非常に良いと思います。

学校に行く意味はない②学力

それともう一つ、学校には大きな役割として、

「読む・書く・話す・聞く」

という、コミュニケーションの基礎スキルに加えて、論理的な思考や表現の方法を学ぶ(いわゆる学力向上)、という側面もあるのだと思います。

それが主要な5教科として認定されているのですが、はっきり言ってコレは学校に行かないほうが効率的に学べます

受験用のアプリで「スタディサプリ」と言うのがあります。

受験対策だけに特化するならば、教えるのが下手な先生の授業を聞くよりも、このアプリを使ったほうが遥かに身につくはずです。

学校に行くことによるデメリットの一つは、能動的に学ぶべきである生徒が、「先生を選べないこと」です。

世の中には、どんな学校にも「教えるのが下手」な先生がいます。これはもう仕方ないことなのですが、もっと生徒の側にも「先生を選ぶ権利」があって良いと思います。

なぜなら学ぶ主体は生徒なのですから。

まとめ

いかがだったでしょうか。

現代の教育は

  1. 受身型から能動型へ変化しているため
  2. 社会性は社会に出て自発的に学んだほうが良く
  3. 学力アップは生徒が自ら「プロ」を選んだ方が良い

と思います。

そのため、時代の変化に一番マッチした教育のあり方としては、学校に行かずに生徒が参加したい事だけ、学びたいことを主体的に選べることだと思います。

離島でそういう場を少しずつ広げていきたい、と思います。