ワーホリで得た3つの人生訓

ワーホリで得たモノ

NZでのワーホリを終えてから早いもので4ヶ月。

改めて、自分にとってあの経験はなんだったのだろうか?

と問い直してみると、意外にも大切な事を学ぶ事ができた期間だと思う。

それは現在、(そしておそらく今後)の行動の指針となっている部分が多いからだ。

では具体的に、何を学べたのか?

本日はそれについて紹介したい。

1.他人のクソゲーに付き合っている暇はない

これは私がオークランドの学校に通っている時の事だ。

クリスマスを間近に控え、その学校では英語の勉強をそっちのけでレクリーションを行っていた。

とは言うものの、そのマンモス校で催されるレクリエーションは、殆ど幼稚園生が楽しむような、簡単なゲームばかりである。

具体的には「アルファベットを並べての単語作成」とか、「イス取りゲーム」とか、「爆弾ゲーム」とかである。

それを別のクラスの外国人と一緒になって1時間以上も行うのだが、これがどうしようもなくツマラナイ

生徒もこんなくだらない児戯に費やしている時間はウンザリしているように見え、気合が入っているのは先生達だけのように見える。

そこで私はお金を払っていることを思いだし、ふと我に帰った。

「こんな風にクソゲーに付き合わされている間に、人生は終わってしまうのではないか?」

考えてみれば、義務教育にしろ会社にしろ(場合によっては趣味でさえ)、自分が過ごす時間は「誰かの意図」に基づくものが殆どだ。

そんなクソゲーに付き合っている暇は、本当はないはずである。

Noと言うのが苦手な日本人は、そうやって他人のクソゲーに付き合っている間に、人生の大半を失っているのではないだろうか。

そう強く感じた。

だから自分が「ツマラナイクソゲー」だと感じたら、勇気を持ってそこから離れる事が大事。

他人の迷惑を考えて、貴重な時間を浪費しては駄目だと痛感。

2.やっちゃいけない事なんてない

これもオークランドにいた時の事だが、私は日本人用の掲示板を使って

「英会話を教えます」

と情報を発信してみた。

最初は殆どダメ元で書いてみたのだが、思いの外沢山のリクエストが入り、日本人のちょっとした集まりを開催する事ができた。

普通に考えれば、英語を学ぶために語学学校に行くのが最適の選択肢に見えるかも知れないが、実際はそうではないと思う。

関連記事:英語学校は最適な選択肢か?

本当に必要な事を、必要な手段で手に入れるためには、やはりインターネットを使った情報の拡散が有効となる。

考えてみれば当たり前の事だが、それを実践として行動のレベルに移すのには大きな隔たりがある。

とにかく思い立ったらやってみる。

やっちゃいけない事なんて、本質的にはない。

行動の制約を無意識的にしてしまっているのは、自分の凝り固まった思考体系に過ぎない。

そういう意味では、ヒッチハイクだけで北島を一周とか、もっとやんちゃな旅もしてみたかったなあと思う今日この頃。

3.自分の好きな事をする時間を作ろう

これもオークランドの街中を散歩している時に感じた事だが、海外にいるのにも関わらず、今ひとつ自分がしたい事を出来ていないような気持ちがした。

では具体的に、やりたい事って何だろうか?

その答えは、街中を散歩していて見つかった。

急斜面の多いオークランドの街。

高い場所からは、広々として気持ちよさそうに整備された人工芝が見える。定規で測ったみたいに真っ直ぐ引かれた白いライン。

そのグランドを見ながら強烈に思ったのは、禁断症状の麻薬中毒者のような事だった。

サッカーがしたいサッカーがしたいサッカーがしたい

オークランドの生活では、週に1回だけボールを蹴る機会があったのだが、それ以外の日はボールに触れる機会がなかった。

毎日のようにボールを無邪気に追い掛け回していた子供の頃を思うと、もう一度ああやって毎日ボールを蹴れればいいな、と思う。

利害関係とか一切抜きにして、ただボールに触れて汗を流したい。

そんな風に強く思ったので、五島の福江島に来てからは、殆ど毎日のように小学校に行って子供達とボールで遊んでいる。

今はたったそれだけの習慣だが、それが自分にとっての原点回帰のようなもので、とても充実していると感じている。