激務が高じて「悟り」を開いた話5ー八景島にてー

(当時の日記に書いていた内容を出来る限り原文のまま掲載してます)

様変わりした世界

新しい世界がとめどなく頭の中で再構築されている状態であって、私はそれを自然に泳がせていたので、殆ど眠りに陥ったという感じはしなかった。

殆ど寝ていない状態だが、体力的につらいとは感じなかった。本日は9時半ごろに起きて朝食を食べて、八景島シーパラダイスに行く準備をする。

今日も素晴らしい天気で太陽に向かい合い、朝から号泣した。なぜそれほど涙が出るのかは分からないけれど、昨日から感傷的な高まりを感じている。

言うなれば、蛹が蝶に羽化するために必要となる変化のようなものであり、それは根本的に身体の組成を作り変えるのと同義である。

もちろん、私の肉体的には大きな変化はないのだけど、思考、見方、世界観の変化は上記に匹敵すると言っても過言ではないくらいだ。

長い会社生活で、数年に一度あるかないかのような大きな認識の変化が、まさしく訪れたという感じである。

八景島へ

ともかくそのような興奮も冷めやらないままリビングに集合し、八景島を目指して8人(同じシェアハウスに住むメンバー)で電車に乗る。

自分自身の態度が確固としていれば、誰の批判も恐れるに足らないと気付いてからは、やけに私は堂々としている。

何しろ革命が起きてから今日で二日目だから、まだ世界との距離が掴み切れていないと言っても過言ではない。

大げさな表現ではないけれど、世界が全く新しくなったようである。

皆でてくてく歩いて入場し、八景島の職員の人が同伴してくれるおかげで、奇跡的な値段で入場することができた。

水族館

水族館は最後、私が元カノと訪れた以来であって、それでも景色の見え方はまるで違うなあと思った。

最初の方は自分の興味に従って水族館を眺めていたのだが、生き物の世界は本当に面白い。

いったいどうしてそういう風になっちゃったの、

って突っ込みたい形質は数限りないのだが、驚くべきはそれが幾千年の時の淘汰をかいくぐり、この世界に確かに存在していることかもしれない。

ビルの海に囲まれた都会の生活ではおよそ考えられないことだが、自然の多様性にはいつも圧倒される。

たまたま私と同年代でシェアハウスに住む女性が近くにいたので、自然に対する興味関心の話で大いに盛り上がった。

私はそういう素朴な興味関心について人と話すのも好きなので、ついつい子供のように熱い口調となった。

クリスマスのイベントとして催されたイワシのショーでは、家族ずれも含め多くの入館者が一旦足を止めて、その光のショーを鑑賞していた。

イワシのイルミネーションショー

私と彼女はちょうど窮屈な感じで身を寄せて座り、それを鑑賞した。イワシの大群自体は何度か見たことがあり、私はそれを観るたび横浜駅のサラリーマンを思い出してしまうのだが、しかし今日のショーは圧巻の視覚的感動を味わった。

暗い水槽の中で、イワシの大群が一斉に、一つの合図をトリガーにして、同じ方向を目指す。

その全体が織りなす銀の輝きは、神秘的としか言いようがなく、広大な宇宙に瞬く流星のようにも見えた。

切り取るとプラネタリウムのようであるが、しかしあくまでイワシの大群である。

場の空気が音楽と相まっていたこともあり、私はすっかりその世界の虜になってしまった。ショーの終盤では、イワシがオタマジャクシのように、光の煌めきとなって上に上にと立ち上っている有様が感動的であった。

それはあたかも、大いなる自然の意思に従い、卵子を目指して一途に行進を進める精子の動きそのものであるように見えた。

そこで繰り広げられる世界には、神が設計したであろう摂理に基づく普遍性と、揺らぎのない美しさがあった。

とにかく自分は感極まって泣きそうになってしまい、ショーが終了してからもしばらくは残像が網膜から抜けなかった。

ショーが終わり

隣の彼女とまたしばらくの間、生物の神秘や不思議について語り合い、私は彼女に対して自然な好意を抱いているということに気が付いた。

興味が合って、話が(そこそこ)合うということ以上に、人に好意を抱く理由はないだろう。

あくまでシェアハウスに住む住民、即ち自然状態の人間の一人として、自然な好意を抱いたのである。

お昼はいろいろとショーを観たりしていたので食べるのが遅くなったが、2時前くらいにガラガラの食堂で食べる。

その後は釣りをしたりボートに乗ったりして、皆それなりに楽しんでいるように見えた。

ディズニー <  水族館

私は断然ディズニーランドよりも、水族館という場所が好きだなと思った。その理由を冷静に考えてみると、何一つとして前者が後者より優れているポイントはないということに気が付いた。

人が多い。料金が高い。価値観が一様。人工的。子供がつらい。

など、要するに、人工的なモノより自然的なモノの方が私は断然好きなのである。

食堂で釣った魚を焼いて食べた後、自分らはジェットコースターに乗ったり子供用の遊園地で遊んだり。

ここでもカメラの応酬が激しかったので、私たちは一貫して視線をそむける姿勢を貫いた。

いい感じであたりも暗くなってお腹も空いてきたので、私たちは当初目当てとしていた牡蠣小屋に行った。

牡蠣小屋での気づき

何とも昭和チックな雰囲気のお店であったが、提供された牡蠣はどれも抜群に美味しかった。

ちびちびと酒を嗜んだり、野菜を焼いたりして皆で食卓を囲む。

今日一日で大分距離が縮まったと感じられた女性が隣に座って、彼女は一言、

「ああ 幸せだなぁ」

と言った。

私はその言葉を聴いて、ハッとした気持ちになった。

生まれも育ちも違う人間が、ただ同じ時間を楽しんで、同じ食卓を囲むというだけの事なのに、その言葉は新鮮に感じられたのである。

なぜか、

私が今まで構築してきた人間関係は、言わば社会がこしらえた制度の延長線上にある世界でしかないからである。

家族は別として、小学校、中学校、高校、大学、会社、そういった、ある意味枠にはまった世界とはまた違う、多様な世代、仕事に従事する人間が、皆で食卓を、自らの意思に基づく行動の結果として満喫していることは、とても素晴らしいことであると感じられたのである。

そして私にとっての幸せっていうのも、おそらくこういうことなのかな、と思ったりもした。

牡蠣小屋の後で

たらふく牡蠣を食べてお酒を飲んだ後、一緒に歩いていた30代半ばくらいの女性が、自分の仕事の悩みとか相談があったら聞いてあげると言ってくれた。

そこにはこう、フランクな関係だからこその、安心感みたいなものがあるなあと感じた。

そしてこの紐帯は、ぶっちゃけ話の相談という意味では、家族以上に強固で安心できるものであるようにも感じた。

皆多くの個人的な悩み、不安、心配事を抱えているわけで、それを気心の知れた同居人にいつでも相談できるということが、どれだけ心強いだろうか。

そして帰り道、依然として和気あいあいと談笑しているシェアの人たちを見ながら、

「自分にとっての幸せとは何なのか?」

という視点から考え、それを具体的なイメージとして考えてみると、この空間で幸せを実現している自分が見えた

これも感覚としては、昨日の朝に感じたパラダイムシフトと同じように、確かな印象として、その姿が目に浮かんだのである。

目から鱗が落ちて、遠くない将来の理想が見えた。そしてこの人たちと一緒ならば、絶対にそれが実現できそうである、とさえ感じられた。

理想

自分の理想が何なのか、という点に関しては、まだ文章化されていなけれど、極めてシンプルである。

今日の水族館で知ったことのように、世界は一つの有機体として密接に繋がり、生物はその中で循環をしている。

ならば自分もその循環の一構成要素として、周囲の生物、人間と調和を取って循環していきたい。

端的に言うとそういうことである。言葉で書くと極めて空々しいが、自分にはそれが感覚として、腹に落ちたのである。

そしてその理念の確からしさについても自信があって、私はそういう方向性に向かって具体的なビジョンさえ示して行動をしていけば、確実にこの人間社会で生きていくことが可能であると感じた。

なぜならそこには、人間が生物の一部として節度を持って生きていこうという、現代社会がまさしくなおざりにしていた哲学があるからである。

それは間違いなく、この世界で不安を抱える多くの人間にとって、共感できる部分があるはずである。

逆に言うと、もう破綻の寸前まで差し掛かっている人類という共同体の将来を案じた時に、この路線へと方針転換をしない限り、結果は大殺界を招くだけに過ぎないということは自明の理である。

誰も声を大きくして、それを言えないだけのような気がするが、ともかく私はそういう風に、自分の人生の方針と、世界の在り方の認識が、とてもクリアになった気がした。

現実世界では

そうであるならば、つまり自己の幸せの実現が今目の前にあって、獲得可能であるならば、そこに向かって最短距離で進むことに対して、何のはばかりがあるだろうか。

そう考えて、私はその女の子に対して、

「結婚してください」

と言おうと決意したのである。

正規の手順(付き合う)を踏んでいないけれど、私にとってはそういう既成概念は特に必要ないもののように思われた。

私はまだ半年くらいしかそこにいないが、その女性が他人との関係性の中でどのように振る舞うか、どのような行動原理に基づいているのかという点に関して、一定の理解をしていると思う。

そしてこの半年という期間の濃密度は、一般の大学生が半年間程度付き合うよりも遥かに相互理解(向こうはどう思っているか知らないが)が促進される生活環境であったと思う。

相互理解は正確ではないかもしれないが、他者との関係性の中でどのように振る舞うかが重要なのである。

少なくとも人との有機的なかかわりを尊重する彼女とならば、自分は自分の理想とする幸せを実現できるだろうと思ったわけである。

プロポーズ大作戦

そのため、電車の中でその決意をしてから行動に移すまでは何のためらいもなく、電車を降りてから、一緒に二人でお酒を飲むことを提案した。

私はそこで、求婚をしようと真剣に考えていた。

しかし彼女は

「次の日が仕事だから炬燵にしよ」

と譲らなかった。仕方がないので炬燵でもいいやと思い、寧ろ公然と言ってのけた方が確約の面でもよさそうだろうと思った。

そして男女7人くらいで狭い炬燵を共有して、テレビを見る。特にこれと言った話題はないのだけど、その静寂が許される感じは、まさしく家族そのものであると感じた。

私は購入したビールを飲みながら、沈黙の雰囲気の中で、どうやってその話を切り出そうかと考えた。誰かに

「今日は二人とも仲好かったね」

と言われれば素直に告白できると思ったのだが、生憎そういう振りもなかった。そしてちょっと冷静になって、

何も今すぐ事を焦る必要もないのかな、

という感じがした。彼女にしたところで、却って衝撃を受けて動揺の方が大きくなってしまうかもしれないと思った。そう思って炬燵を出て、シャワーを浴びて寝ることにした。

今日もまた昨日と同じように、いろいろな世界のパーツが自動的に行き場を求めて大きな絵画の中に取り込まれていく。

私はそれを自然に感じ取りながら、眺めている。不思議なことに、一つの出来事がきっかけとなって、日々感動的に新しいことが起こって世界が完成されていく。

パチンコに例えるならば、確変リーチからの大当たりが数時間続いているようである。

 

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