おはようございます。
高校の頃は「ワンシーズン ワンパーソン」の異名で知られていた中西です。
さて本日も、人生訓みたいな話です。
最近巷では、大きなニュースが繰り返し報道されて、
- 東京オリンピックの経済損失は?
- 世界経済への影響は?
- 感染者数の推移は?
など、様々な情報が錯綜しています。
病原菌や経済に対する「分析」は世の中に沢山出回っていますが、果たしてこの出来事に対する「意味」とは何でしょうか?
まずは「分析」という行為がもたらす効能について考えてみます。
分析の効能
分析。
それは一つの物事を分解し、「責任の所在」を明らかにしようという取り組みです。
例えば今回の病原菌、中国が発生源だと分かれば、そこからの輸入を封鎖するのが正しい正解となります。
同じ発想で「経済的に失敗した国」を分析した時、特定の省庁や役人が、おそらく「犯人」として炙り出されるはずです。
太平洋戦争時の「A級戦犯」のようなイメージです。
今回の騒動を巡っても、おそらく誰かが事後的に、同じような烙印を押されるのでしょう。
より身近な例としては、会社組織です。
例えば「会社がうまく行かない原因」を考えた時、おそらく誰もの頭に「誰かの顔」が浮かんでいるのだと思います。
それはトップ経営者かもしれないし、身近な上司かもしれません。
会社経営に対する責任
という言葉がよく聴かれるようになりましたが、もちろん上場企業の業績が下がれば、経営者の首が飛びます。
これが政治家だったら、自身が当選しなかった理由を考えて、「市民のレベルが低かった」などと分析するのかもしれません。
逆に有権者は、「あの政治家がダメだ」と言うかもしれません。
政治・経済・そして対人関係。
全てに共通して言えるのは、
「分析」のゴールは「自分以外の人」に帰属する
という点です。
分析の結果、明らかになった「原因(らしきもの)」を排除する事により、物事は正しい方向に向かうという発想です。
しかし本当に、物事はそんなに簡単でしょうか?
短期的にはこれは有効だと思いますが、長期的にみれば、また同じ発想で「犯人探し」が始まります。
ここ最近の社会の空気感では、この「分析」に対する熱意が非常に高まっているように感じます。
誰もが疑心暗鬼な心理から保身に走り、誤ったレッテルで人を傷つけ、そして対立が生まれる。
そういう方向性に向かっているように感じます。
「意味」を考えよう
そんな時代だからこそ、分析とは反対の発想が求められていると感じます。
それは、「意味を考える事」です。
株価の下落や経済の停滞、そして雇用不安。
一人一人が「自身の前」に生じている出来事の「意味」に正面から向き合えば、
- 自分の足元を疎かにしたまま
- 外側ばかりに注意を向けて
- 突っ走っていた部分がある
事は否定できないと思います。
今回、経済的に一番手痛いダメージを被ってしまったのは、
「インバウンド誘致に前のめりになってしまった事業者」
だと思います。設備投資はしたけど、全く集客の見通しが立たない状態では、負債だけが残る形になってしまいます。
では、どうしてそんな判断をしてしまったのか?
その答えは、個人個人に帰属するため、答えは千差万別です。
まとめ
「分析をする」と「意味を考える」は、ある意味で真逆のアプローチです。
分析をする:「分かりやすい」原因が、「自分の外側」で早期に発見できるため、「短期的な問題解決」には役立つ
意味を考える:「分かりにくい」原因を、「自分の内側」に見つける事ができるため、「長期的な人生の改善」に繋がる
という違いがあります。
個人的には、社会全体の不安が高まる中で、個人の心のベクトルが
分析 > 意味
になっている感じがします。しかしこういう時こそ、逆に
分析 < 意味
になった方が、長期的な世界の安定に繋がると感じます。
目に映る全てのモノはメッセージ
だと捉えれば、自然と世界に対する見方も変わってくるはずです。