NZ国内で感じる違和感
ネイピアからオークランドに来て、時間の流れが変わったように感じる。
人々の行動は素早く、道を歩く人もせかせかしているという印象だ。学校に通う生徒でさえも、何かに追われているかのようにあくせくしているように見える。
今まで生活していた場所に比べると、皆きっちりかっちりとしているのである。
なぜそのような違いが生じるのだろうか?
そんな事を考えている矢先、たまたま授業で、「clonological time」 と「kariological time」と言うものを学んだ。
今回はその違いに即して、時間について考えてみたい。
clonological timeとは何か?
一言で言うと、時計を中心とした時間のことであり、都市生活者の間では一般的に使われている。
決められた時間に起き、決められた時間に決められた行動をする。
生徒が学校に行き、サラリーマンがオフィスに行くように。
そこで絶対的な支配力を持っているのは、「時計」である。
私がそれに違和感を感じたのは、ニュージーランドで「day light saving」を体感した時だった。
旅行から帰ってきて時計を見ると、まだ外が明るく、「日が長くなったなあ」と感じた。
「日が長くなった」こと自体は事実なのだが、その印象は「日の長さ」そのものではなく、「時計と比べると」というだけに過ぎない。
「8時でもまだ外が明るい」と思うのは、私たちが時計の針を都合よく調節している結果に過ぎない。
kariological timeとは何か?
それは時計が中心ではなく、私たちの生活を取り巻く「自然」及び私たち自身の「身体」に基づいた時間体系である。
例えば花の匂いや太陽の動き、星の動きによって時間を計る。
計るといっても、そこでは「正確さ」は大した意味を持たない。
その時間帯系は絶対的ではなくて、自然の移ろいとともに変化していく。
当然のことながら、私たちを取り巻く自然は多様であるため、kariological timeは一概に定義することはできない。
ニュージーランドでの時間
私の感覚としては、ニュージーランドという同じ国の中でも、とりわけオークランドは、ほかと比べてよりclonological的であると感じた。
考えてみれば、それは無理もないことであった。
オークランドという「都市空間」においては、基盤となるような自然が存在しない(駆逐されている)ため、便利で効率的な「時計」が幅を利かせている。
一方で、どちらかと言うとネイピアは、比較的自然が多く存在し、「時計」がそこまで重要な役割を占めていないように感じた。
それでもネイピアが、「自然」に基づいたkariological的であったかというと、決してそういう訳ではない。
おそらく、マオリの伝統的な暮らしを体験すれば、自然に根ざしたリズムをより手触りのあるものとして感じられるのだろう。
私はこのkariological timeという時間軸に沿った生活を体験したみたいと思っている。