ランニングは趣味ではない
最近になって気がついたことだが、私にとって走るということは”趣味”ではなくて、ただの”習慣”である。
趣味というと、どちらかというと楽しみの要素があって、
- 休日の大切な時間を惜しんで
- わざわざお金を払って
- 楽しみながら実施する
感じである、と私は解釈している。
しかし私にとって、ランニングというのはそういう娯楽的な類のものではない。
いうなれば毎月の家賃
どちらかというと必要に迫られて実施するものである。
私の知り合いにランニングのことを話すと、下記のような質問を受けることが多い。
- 走らなくても生きていけるではないか?
- なぜわざわざ自分から苦しいことをするのか?
- 走るのはつらいだけなのではないか?
そう言った指摘はもちろんである。と私も思う。基本的に走ることは辛いことだし、食事や排泄のように絶対に必要なことではない。
しかしそうした考えに基づいて、走らない期間が長くなると、何かモヤモヤとした気持ちが体の中に発生し、滞留してしまうのも事実である。
掃除をしないと部屋が汚れてしまうのと同じ
ただ私は、ゴミが溜まる期間が他の人よりも短いのかもしれない。とにかくそのモヤモヤを追い出すために走るのである。
おそらく人間にとって、必ず一定期間のうちに消費しなければいけないエネルギー量というものがあって、それを消費しないことは、体にとって悪い影響を及ぼす。それは体内で蓄積された不純物の排泄という行為と同じである。
いずれにせよ、その有り余ったエネルギーを発散させる一つの手段として、私はランニングを実践しているのであり、とりわけ都会で”快適に”過ごす人間は、大なり小なりそうした必要性に迫られている。
私はもっともお金がかからず、手軽な手段として、走ることを採用しているのであり、諸々の制約さえなければ、極論何でもいいのである。
続けるとどうなるのか?
しかし不思議なことに、習慣的にそれを続けていると、「それなし」では生活が落ち着かなくなるような、そんな気分にもなってくるのである。
走ることは、体という住まいに対する家賃の支払いであると共に、掃除でもある。借り物の住まいに住む身分としては、その習慣をただ履行しているだけであり、それは趣味という次元とは少し違うのである。