かすみがうらマラソンに出た話 その2

  • 2016年8月20日
  • 2021年3月28日
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20キロ付近

急な下り坂があり、要注意のスポットが続く。下りで流れに任せてペースを上げてしまうと、その後のペース調整に苦しむ気がしたから、意図的にゆっくりと下ることを心掛ける。

そこから、3時間半という目標に対して、あとどのくらいのペースで走り続ければよいのかを計算する。

1キロあたり、今よりも5秒の借金を返済していけば、問題なさそうである。そう思いながら田んぼのあぜ道を走り抜ける時、ふとした考えが浮かんだ。

目標タイムに捕らわれないこと

それとも

目標タイムに固執すること

どちらが大事なのだろう。

仏教で言えば「捉われないこと」が良く、「固執すること」が悪いようにも考えられる(なぜそこで仏教?なのかはさておき)。

が、勝負の世界では逆である。定めた目標に対して、どれだけ強い思いを持ちつづけ、練習に移せたか――その積み重ねによって結果は決まる。

タイムに固執しよう。そのために今は、ゆっくりゆっくりペースを上げて、”返済計画”を立てよう。

25キロ付近

時計を確認する。意外にも手元の時計は、先ほど定めたペースほど上がっていない。主観的な疲れと、手元のタイムが比例しない。私は数字を追いかけて、結果を出したいと思う。

このままでは目標を達成できない。

徐々にペースを上げる。限界とは何か。走りながら考える。走行時間が2時間を超えてくると、徐々に素直な動物としての自分自身がレースに顔を出してくる。

もう疲れたからやめよう

声にならない身体のささやき――その声は、時間に比例して大きなものとして、頭の中で育っていく。

それでも順調にペースを上げ続け、目標通りのタイムを刻むことに成功する。しかし一方では、ペースを上げたことによる疲れが充満してくる。私は走る。走るけど、

「アーーーっ」

という感嘆詞も出てくる。

30キロ付近

私はもはや疲れというものを、圧倒的な存在感を持つものとして、肌で感じないわけにはいかない。

ここで止まったら最後二度と復帰できず、”試合終了”であるということを予感する。

「心で走る」

そう掲げられた横断幕が目に留まり、私はその言葉を何度も反芻する。もう止まったら最後だと覚悟を決める。そして考える。

走りすぎて死んだ奴はいないだろ?

確かにそうかも。

一度は死の淵まで行ってみたら?

そうかなあ。。。

さもなくば何も得られないのでは?

言いたい事はわかる。

そう励ますけれど、疲れは私の心を苦しめる。

前回のように、足が物理的に上がらなくなっているわけではない。息だって、ハアハアぜえぜえしているわけでもない。

要するにそれは、”走り続けること”を忌避したいという、心の声に過ぎない。ペースを維持するのが苦しい。

どうしてこんなバカみたいなことをしているのだろう

圧倒的な挫折を味わった、前回のことを思い出す。だがひとまずは、このペースのままで、35キロまでを目標として走る。すでに満身創痍である体を叱咤しながら。