20キロ付近
急な下り坂があり、要注意のスポットが続く。下りで流れに任せてペースを上げてしまうと、その後のペース調整に苦しむ気がしたから、意図的にゆっくりと下ることを心掛ける。
そこから、3時間半という目標に対して、あとどのくらいのペースで走り続ければよいのかを計算する。
1キロあたり、今よりも5秒の借金を返済していけば、問題なさそうである。そう思いながら田んぼのあぜ道を走り抜ける時、ふとした考えが浮かんだ。
目標タイムに捕らわれないこと
それとも
目標タイムに固執すること
どちらが大事なのだろう。
仏教で言えば「捉われないこと」が良く、「固執すること」が悪いようにも考えられる(なぜそこで仏教?なのかはさておき)。
が、勝負の世界では逆である。定めた目標に対して、どれだけ強い思いを持ちつづけ、練習に移せたか――その積み重ねによって結果は決まる。
タイムに固執しよう。そのために今は、ゆっくりゆっくりペースを上げて、”返済計画”を立てよう。
25キロ付近
時計を確認する。意外にも手元の時計は、先ほど定めたペースほど上がっていない。主観的な疲れと、手元のタイムが比例しない。私は数字を追いかけて、結果を出したいと思う。
このままでは目標を達成できない。
徐々にペースを上げる。限界とは何か。走りながら考える。走行時間が2時間を超えてくると、徐々に素直な動物としての自分自身がレースに顔を出してくる。
もう疲れたからやめよう
声にならない身体のささやき――その声は、時間に比例して大きなものとして、頭の中で育っていく。
それでも順調にペースを上げ続け、目標通りのタイムを刻むことに成功する。しかし一方では、ペースを上げたことによる疲れが充満してくる。私は走る。走るけど、
「アーーーっ」
という感嘆詞も出てくる。
30キロ付近
私はもはや疲れというものを、圧倒的な存在感を持つものとして、肌で感じないわけにはいかない。
ここで止まったら最後二度と復帰できず、”試合終了”であるということを予感する。
「心で走る」
そう掲げられた横断幕が目に留まり、私はその言葉を何度も反芻する。もう止まったら最後だと覚悟を決める。そして考える。
走りすぎて死んだ奴はいないだろ?
確かにそうかも。
一度は死の淵まで行ってみたら?
そうかなあ。。。
さもなくば何も得られないのでは?
言いたい事はわかる。
そう励ますけれど、疲れは私の心を苦しめる。
前回のように、足が物理的に上がらなくなっているわけではない。息だって、ハアハアぜえぜえしているわけでもない。
要するにそれは、”走り続けること”を忌避したいという、心の声に過ぎない。ペースを維持するのが苦しい。
どうしてこんなバカみたいなことをしているのだろう
圧倒的な挫折を味わった、前回のことを思い出す。だがひとまずは、このペースのままで、35キロまでを目標として走る。すでに満身創痍である体を叱咤しながら。