「遅いインターネット」を読んだ個人的な感想

本日は本を読んだ感想です。

例によって、「読む前の背景」からご紹介です。

日記の文章からの引用ですので、文章が長いです。

興味のない方はすっ飛ばしてください。

読む前の背景

TVでは連日のようにコロナ報道一色で、橋下徹がコロナ対応において、政府のベンチマークを「感染者数」から「人口当たり死者数」に変更する事が必要ではないか、という趣旨のコメントを述べていた。TVを見ながら、場所に捕らわれず、自由な立場として意見を申し述べ、自由な経済活動に従事する、それがある意味で一番心地の良い生き方なのだろうな、と感じた。朝食を食べてから、飛行場までの距離を調べてみると、それが4km程度であり、「十分に徒歩圏内」である事を嬉しく思った。

それは最近、特に自分の中で「歩く事」が趣味であり、平面化してしまった世界との距離感を捉えなおす、最良の感覚的な営みだと感じるからだ。歩けることは嬉しいし、景色を眺める事が出来るのは楽しみだ。そんな事を想いながら、大村にある「みらいon図書館」に足を運んだ。10時からの開業ではあったのだが、その図書館自体、特に「未来に対する新しい取り組み」という匂いは感じ取れなかった。言ってしまえば、蔵書数が多くて快適な図書館。最大公約数的に、子供のスペースがあったり、会議スペースがあったり、はたまた大村の歴史を示す資料館があったり。おためごかしにQRコードをスマホで読み取って、VR的な体験が出来るスペースがあったけれど、誰も利用しないだろうな、と思ってしまった。

図書館自体は綺麗で快適だが、「みらいon」という言葉自体には、違和感を抱いた。むしろ、「かつてon」の機能を備えた代物に過ぎないと。しかし、言ってしまえばこれが「行政と市民の総力」なのかもしれない。全国のどこにでもある、見栄えは近代的だけど、中身はほぼ全国どこでも同じ図書館、という事だ。別に自分は、それが間違いであるとは言っていない。ただし、税金を投じて図書館を建てるという事は、やはりそれだけの公共性が必要だろうと思う。インターネットが普及する前の時代において、その公共性は一定程度評価できた。しかし今や、テキスト情報を入手するのであれば、kindleがあれば十分だし、打ち合わせをするのであればシェアオフィスで十分だ。つまり、図書館が持つ「機能的な側面」に対する代替手段が豊富になったため、相対的に「複合施設としての図書館」の公共性が低下している事は、否めない。

そうした時代背景を踏まえずに、昭和のハコモノ的な発想で図書館を建設しようとする発想は、時代遅れだし、淘汰されるべきだと思う。おそらく五島市も、そうだと思う。自分にまだ裁量が与えられるのであれば、図書館建設を白紙撤回したい。図書館を創らない理由だったら、上記の点だけでなく、財政的な面からも論理的な説得をすることが出来る。ただし、感情面ではどうだろうか。「図書館がないと子供が可哀そう」とか、「街の活気がなくなる」という感情論は、丁寧な数字と論理を積み重ねる事で、説得可能だと思うし、キチンと言わなければいけないと思う。そして最大の理由は、「図書館が存在しない島で、市民が図書館を作る機会」を、行政が奪ってはいけないと思うからだ。

市民発で、個性的な図書館を創れば良いと思う。何もそれは、一つの場所でなくても良いし、複数の場所があっても良い。帰り道に、そんな事を想った。そして同時に、自分は「遅いインターネット」という本を、今こそ読まなければならぬ、と思った。それは自分が、近日中に「公約集」に近いものを作成する必要があり、その中で今までの価値観に対する「ゆらぎ」が発生しているからだ。その内容についても、具体的に書いていきたい。

今までの自分は、技術活用による社会の自動化こそが、島の目指すべき方向性だと考えてきた。例えば、タブレットで商品を注文すれば、自動運転の車とドローンで物資が供給される、「早い社会」の究極系である。ただし、それは短期的な不便の解消に繋がるかもしれないが、長期的に「人間が豊かに暮らす」ツールとして有効に機能するだろうか、甚だ疑問である。逆に、利便性を徹底的にそぎ落とした、不便な社会であれば、自分たちで生活を0から作り上げていかなければいけない。そこにこそ、今の社会で決定的にないがしろにされている、「温度のある生活感」がもたらされるのではないだろうか、と思う。便利な場所に住みたいのであれば、都会に移住すればよい、という話になる。

街づくり、地域づくりの観点からも、確かに交通網が改善されたことにより、地域の「創る力」とその必要性は薄れていったのは間違いない。「どうせAmazonや大型スーパーで手に入るんだし」という事で、人々は創る営みから徐々に撤退をしていった。壁がなくなる事により、人は利便性・効率性に促され、流出をしていった。そうであるならば、同じ価値観の延長線上にある「自動化」を採用するのではなく、あえて不便性・非効率性の価値に目を向け、そこを磨くことが、これからの地域づくりに繋がるのではないか、と思った。それに加え、コロナショックによって「繋がる事のリスク」が改めて顕在化された。外部の資本や供給に依存しすぎてしまい、「創る力」が0になってしまうと、繋がりが途絶えた瞬間に死が待ち構えているという事が、明らかになった。

より広い視野で、近年発生した事例を見てみると、金融ショック・原発ショック・そして今回のコロナショックで明らかとなった「都市構造」の本質は、周辺部に対する「リスクの転嫁」である。周辺部は吸い取られる、という構図そのものを転換する事こそが、世界的にみて政治が果たすべき大きな役割ではないだろうか。そんな思いから、従来大事にされていた「速さ」という価値観を反転させ、逆に「遅さ」のようなモノが大事になる時代に突入しつつあるのではないか、それがこの本を読みたくなったきっかけだった。

本の感想

長くなりましたが、以下、本の感想です。(半分日記・半分ブログです)

民主主義を半ば諦める

今、世界には「anywhere(どこでも)」と「somewhere(そこでしか出来ない)」の人たちがいると。

分かりやすく言うと、GAFAで働くエリート集団と、ラストベルトで働く工場労働者の違い。

そして「anywhere」は、世界中で通用するネット空間のサービスを通じて、民主政治に関係なく「世界に対する手触り」を得られるのに対して、「somewhere」でしか生きる事の出来ない人たちは、民主主義という方法でしか、「手触りのある世界にアクセスできない」。

その指摘は、アメリカのトランプ大統領、ブレグジットの背景として、その構図を上手に説明しているように感じました。

「民主主義は持たざる者の負の感情の発散装置」

これは確かに、日本の社会にも言える事でしょう。

一方で、私自身に置き換えても、この問題は深刻だと感じました。つまり、「どうせヨソモノなんだから、選挙に落ちたら千葉に帰るんでしょ?」という皮肉は、「五島で骨を埋める」という覚悟(somewhere)のなさとして、選挙における少なからぬハンデになるだろう、という事です。いくら言葉で「そうではありません」と言ったところで、その「空間に対する隔たりの認識」は、中々乗り越えるのが簡単ではないと感じました。

そうした中で、この決定的な、埋めがたい溝を乗り越える方法が提示され、私にとっては、「新しい政治へのアクセス手段」として、導入すべき点があると感じました。例えば台湾が実践しているように、従来の「行政職員」という概念を超えた、市民の政治分野へのアクセスを創る事は、これからの日本でも積極的に導入を検討すべきです。

そしてもう一つのアプローチとして提示された、ゲームを通じた世界へのアクセス、これも政治の側で導入を促進すべきテーマであると感じました。というより、何でもかんでも「政治」の世界に持ち込むという訳ではなく、いかに「普通」の暮らしと「政治」という非現実的(に見える)世界との距離を縮め、社会を全体として良い方向に向けていくか、という問題です。

私がこの本のテーマとして感じた事は、このどうしようもない世界との距離感を、私たちは如何に保っていくか?という事です。それは政治の話でもあり、ゲームの話でもあり、インターネットの話でもあります。

そしてつまるところ、個人の生き方の話です。私たちがそれぞれに対して、どういう態度を示すか?ということでもあり、どうやって過去の失敗から学び、その反省を活かすか?ということでもあります。

答えはありませんが、筆者が示す通り、「走りながら考える」しかないのだと思います。こういう私自身、今まで「政治の方向性」として掲げてきた指針に対して、疑問を感じつつあります。

前述の通り、私はこの本を、「もやもやとした感覚」を抱く中で、ぜひ読んでおくべき必要性があると、直感的に感じました。コンパスの針がグルングルンと回る中で、この本が何かの指針になるのではないか、と思いました。

しかし結局のところ、本書でも指摘されている通り、答えは示されず、むしろ疑問の提示が多いように感じられました。これからの時代は、「絶対的な正解はない」と言われますが、それを理解するだけでは不十分です。

具体的には、書くという行為が読むこととセットで必要とされます。長距離を走るように、体力が削られる行為です。

 

こんな記録を通じて、私は少しでも多くの人と、緩いお喋りや会話・対話の機会が得られればいいな、と思っています。