「ふるさと」と「住民」がなくなる時代

生まれ故郷

最近の教育現場では、「生まれ育った地域のことを知ろう」というお題目で、小学生が積極的に外に出かけて、商店街やなんかの聞き取り学習をしています。

更に中高生になると、「ふるさと探索」と称して地域の伝統的な場所に足を伸ばし、遠足気分であちらこちらを巡っています。

私が中学生の頃は、鎌倉遠足をした思い出がありますが、「郷土のこと」については学ぶ機会が少なかったと感じています。

ふるさと主義

前からうすうす思っていることですが、教育の現場に「地域を盛り上げなければイケナイ大人の事情」が介入してくることに、私は違和感を感じます。

  • ふるさとを愛しなさい
  • 生まれた土地を知りなさい
  • 地域のために協力しなさい

少しずつ濃度を上げながら、教育現場にそういう雰囲気が醸成されているように感じます。

この傾向は田舎に行けば行くほど高くなり、「お受験第一主義」を標榜する「都会の教育」とは温度差があります。

地域を盛り上げなければいけない大人の事情で、教育の果たすべき役割って言うのも、少しずつ変質しているように思います。

「ふるさと」自体が揺らぐ

旅人は感動した場所に対して、こんな比喩を言います。

ここは私にとって、第二のふるさとです。

そういう場所があるのって素晴らしいと思いますし、これから先の世界では、益々ヒトと仕事が場所に依存しなくなります。

そうなったとき、「ふるさと」という概念は「A地点で生まれた」という以上の大きな意味は持たなくなります。

なぜなら、「ふるさと」という言葉に含まれる「地域への愛着」は、その地域で生活する長さに比例するからです。

で、そうなってくると当然、行政単位としての「○○住民/市民」という概念も意味が変わってきます。

現に、自分が気に入った地域に納税(ふるさと納税)をしたり、地域の発展に寄与する投資(地域CF)をしたりすることが可能です。

旅・人・仕事

これからの時代は、「住民」や「ふるさと」と言った、場所に依存する概念の意味合いが薄れる一方で、「旅」を通じた「仕事」に関わる人が増えていくでしょう。

オンライン空間で人が知り合い、現地で合流するというような旅のスタイルも、現代ではトリッピースというようなサイトがあります。

こうした時代背景をふまえ、教育の現場は「地域の事情」に縛られ過ぎず、「移動型の社会」に適した視点をもっと導入すべきだと思うのです。

先日の市長述懐の記事でも書きましたが、順番は

やべ!地域のことを知らなきゃ!

という危機感から出発し、自分で勉強する

のがセオリーです。学ぶよりも交わるほうが先です。

テストのための、肌身感覚の伴わない学びなんて、上っ面だけで意味ないですからね。