生きかたについて
みなさんこんにちわ。
本日は生きかたについてお話したいと思います。
重たい話題かもしれませんが、出来る限りユルいトーンで欠いてみたいと思います。
こちらの記事で書いたとおり、「仕事」と「人生」について、もっとこれから抜本的に考え直す必要がある時代だと、私は思っています。
そこで人生について、いつか訪れるであろう「死の間際の時間」について考えてみたいと思います。
唐突ですが、あなたは「自分が死ぬこと」について深く思いをめぐらせたことがありますか?
私は小さい頃から、「死ぬこと」が怖くて怖くて堪らなかったです。覚えているだけでも、幼稚園の頃、寝る間際に「死ぬこと」を考えて、怖くて居ても立っても居られなくなってバタバタと騒ぎまわっていた記憶があります。
「死ぬことの怖さ」について
幼稚園の頃から、「死ぬこと」の怖さについて、私は怯えていました。
具体的にどう怖いのかと言うことですが、私にとってそれは、
「自分が死んだ後、永遠に死に続けていること」
が怖かったです。
幼いながらにも、時間というものは永遠に流れていて、止まる事はなさそうだということは分かっていました。
そして聴いた話によると、人間の一生と言うのはたったの五十~百年に程度に過ぎないということです。
時間軸と言う途方もなく長い線の上では、人間の一生なんていうのはセミの一生と同じくらい儚く、そして短いということだけは分かっていました。
そして私と言う存在そのものが、その時間軸の中で、
「永遠に死に続けていること」
が怖く、言い換えると
「未来永劫、復活の予定は一切ない」
ことが怖かったのです。
「『自分』が永遠に存在しなくなる」
それが怖いって考えたことってありませんか?
生きること
その問題は、別に小学生になっても中学生になっても、ましてや高校生になっても解決されることはありませんでした。
死んだ後は永遠に死に続け、世界との関わりが絶たれ続けてしまうことに関して、何ら具体的な処方箋はなかったのです。
そして私にとってそれは、解決不可能な恐怖でした。
受験勉強によってすっかり賢くなってしまった私には、仏教的な輪廻の話も、来世の話も、ましてや天国のお話さえも慰めにならなかったのです。
高校を卒業するくらいまで、そうして徐々に近づいてくる「死の足音」から出来るだけ耳を遠ざけて、「死ぬこと」を考えるのさえ辞めていました。
受験勉強の忙しさ。
部活動の忙しさ。
そうした日常生活の忙しさが、私に「死ぬこと」について考える時間を奪い去ってくれていたのだと思います。
「死ぬかも」を肌で感じる体験
大学を卒業し、社会人になり、一時期は「マジで死ぬかも」っていうところまで精神的に追い詰められたりもしました(今思えば大げさですが)。
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そこで気が付いた大事なことは、
「今ここで死ぬとしたら、満足か?」
って言うことです。それまでの日々と、自分が選んだ選択について、自問をしてみるわけです。言い換えると、
今までの自分の選択・行動に後悔はないか?
っていうことです。
死ぬということを、空想的な観念ではなくて、「明日起こりえるかもしれないこと」として意識することによって、初めて「自分の人生これで良かったの?」的なことに思い至った感じです。
幼い頃は、選択できることがあまりにも少なすぎたから、そういう考えには至らず、ただただ死ぬということが怖かったのですが。
人生の判断基準
そこで当時、社会人だった私は
「短く、儚く、そして明日終わってしまうかもしれない人生」
について、
「どんな人生がいいだろうか?」
と自問自答してみました。価値判断の基準は幾つかありましたが、
- お金に余裕のある人生と、お金に余裕のない人生
- めそめそと生きる人生と、堂々と生きる人生
- 狭い価値観で生きる人生と、幅広い人と知り合える人生
- 常に不平を言っている人生と、常に夢を語っている人生
- 人に対してケチな人生と、人に対して寛容な人生
- 「やらされる」人生と、「やりたいこと」をやる人生
- 広がりのある人生と、広がりのない人生
- やり過ごすだけの人生と、チャレンジする人生
- 消化不良な人生と、「やり切った感」のある人生
- 平坦な人生と、起伏のある人生
- ありきたりな人生と、波乱万丈な人生
- 楽しくない人生と、楽しい人生
こういったことを考えたとき、私の回答は常に選択肢の右側でした。
皆さんはどうでしょうか?
小さい頃から死ぬことに怯え続けていた私ですが、
『どうせ死ぬんだから、思い切って行動していいじゃん。』
という一種の開き直りが、今の私の人生観です。