かすみがうらマラソンに出た話 その3

  • 2016年8月21日
  • 2021年3月28日
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35キロを超えて

苦しいときに、私は沿道の人たちが食べ物をくれたり、応援してくれるのを見て、1人じゃないから、1人でやるとき以上の力を出せる、と直感的に気がついた。

名前も顔も知らない人が、背中を押してくれる。だからこそ、「もう少しやってみよう」という気持ちを持つことができる。

息をするたびに苦しさと対峙する私は、心の底からそう思った。

一瞬でも気持ちの手綱を離してしまっては、終わりなのである。

そのような状況の中で、心をつなぎ留めてくれる言葉を送ってくれる人がいることに感動した。

そういうつながりを身体の底から感じられることができて、武者震いする。

ここに来てよかった。一人じゃないから強くなれる

そうやって強くした気持ではあったが、。2時間50分くらいから、1キロを5分弱で走る気持ちを持ち続けることができなかくなる。きつい。

私は目標を変更し、時間にこだわる頭を切り替えて、「完走すること」に切り替える。

気持ちを奮起することに専念する。「頑張れ」以外の言葉で、自分の気持ちを保つ術はないか――。

もう沿道の人たちの応援も、遠くの霞んだ声のように聞こえ、疲れは慢性的に私を蝕んでしまっている。

35キロ付近

時間に対して進んだ距離と、疲れの程度に”ずれ”を感じる。何度も諦めたいという気持ちが頭をよぎる。

ペースを落としたのだから当然なのだけど、一度疲れに屈してしまってからは、疲れが加速度的に心を蝕んでいく。

前回を超えたのだから、それでいいではないか

と、当初何も想定していなかった、偽りの目標に対する誘惑で、自分をごまかそうとする。

しかし私は、結果にこだわりたい。ほとんど永遠に続くと思われる葛藤が繰り広げられる。過呼吸のようになる。

もう辞めたい。なんでこんな事をしているのか?その思いばかりが強くなり、自然と顔も苦悶の表情になっていく。

集中するということ――。限界を決めるものは何かということ。それはいつも自分の心次第である。

私はまだまだ自分の限界を過小評価していて、本当に集中力を高めてアドレナリンを全開にすれば、想像以上の力を発揮できるのだと思う。

死ぬくらいに疲れたい――。

だけどもう実際のところ、死ぬほどつらい――。

40キロ付近

「あともう少し」というのは、”遠い昔”に始まったことのように錯覚してしまい、遂には気持ちが切れて、歩いてしまう――。

 

泣きたい気持ちでいっぱいだ。何とか再び走り始めても、持続できない。私は自分の情けなさに、心底絶望した。

“あとたったの2キロ”で諦めるなんて、なんて情けないのだろう。

沿道の人たちは、ゴール付近に集まっている。私はただ、差し伸べられる食物を口にしたいだけ。

沿道の食物、水をひったくりのようにむしり取り、歯を、最大限に駆使してそれを流し込む。

レモン美味しい

そのまま皮ごとかじりつき、バクバクと食べる。チョコも水も、可能な限り摂取する。そしてまた歩き

「今度はあの地点から走り出そう」

と思い、再び走って、また歩く。

情けなくて、こんな人間は、走る資格がないのでは、と思い、挫折する。なんて弱い人間なのだろう。いやしかし、これが今の限界なのかも、とも思う。

走れない。

その事実だけが私の心を支配して、ダメ人間としての自覚が私を更に苦しめる。ゴールまで見えた。最後はなんとか走って終わる。

ゴールイン

目標時間は達成できなかったが、タイム的にはホノルルより30分ほど良くなった。

私はこれをどう解釈すればいいだろう?

ゴール付近に座って、泣きじゃくりたい気持ちでいっぱいである。

顔がゆがむ。悔しい。

それでも、まだ私には、「そういう気持ち」が残っていたんだなと気がつく。

しかし、私には泣きべそを書く資格があるのだろうか?ただ結果に対する努力が足りなかった。それだけのことではないのか?

事実だけ見れば、そのとおりである。私がやったことの成果は、もうやる前から決まっていたのだし、気持ちで頑張るにしても、限界があるはずである。

 

力を尽くすということは、本気を出すということである。

そして悔しいという想いは、その思いの強さに比例する。

最近こんなに本気になったことがあっただろうか?

自問をしてみて、本当に久しぶりに、純粋なる悔しさに打ちひしがれている自分を発見した。